|
1 樽悶 ★ :2023/07/15(土) 00:59:35.56ID:SkfYjfLz9
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。
(省略)
卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。この地こそ倭国の大王都とみる。
平成21年に発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、飛鳥時代の宮殿を思わせる配置だった。東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土。シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市だった。
「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、倭国の女王。卑弥呼のいた場所が邪馬台国。これを間違ってはいけない」と強調する。
纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳にも、いち早く着目した。県立橿原考古学研究所に就職した昭和51年には纒向石塚古墳(墳丘長96メートル)を発掘。後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれ、「纒向型前方後円墳」を提唱した。
この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上るという。「ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、各地に広がった。地方との政治的関係がこの段階で形成された」とみる。
(省略)
卑弥呼は、北部九州や吉備などの勢力が話し合いで擁立し、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に都を置いた-。邪馬台国畿内説ではあっても〝多数派〟と大きく異なる見解を示した。
魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。
この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。
しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。魏志倭人伝の「倭国乱」について、中国の別の歴史書に「歴年主(あるじ)無し」と記された点に着目する。「中国から見て、倭国の王が定まらず外交窓口がない状態を『乱』と表現した」とみる。
遺跡の状況がそれを裏付けるという。「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。
この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。
新著を通じて「混沌(こんとん)とした状況を打破するため、北部九州や吉備などの勢力が話し合って卑弥呼を擁立。王都は、突出した既存勢力がいない纒向に置いた」と説く。
(省略)
「卑弥呼の時代は3世紀の昔の話と思ってほしくない」とも語る。卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは景初3(239)年。親魏倭王の称号と金印が授けられ、破格の待遇を受けた。
この年は、朝鮮半島北部一帯の勢力「公孫(こうそん)氏」が魏に滅ぼされた翌年にあたる。「卑弥呼は激動する東アジア情勢をいち早くキャッチし、魏の脅威を感じて使者を送った」と解説。さらに当時の大陸は魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三国志の時代。「魏にとって、ライバルの呉を牽制(けんせい)する意味で倭国との関係を必要とした」とみる。(以下ソース)
7/9(日) 19:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/5d629aca32937916c57fe217ef6e77b9f5ccafaf
★1:2023/07/12(水) 23:23:47.30
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1689171827/
(省略)
卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。この地こそ倭国の大王都とみる。
平成21年に発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、飛鳥時代の宮殿を思わせる配置だった。東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土。シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市だった。
「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、倭国の女王。卑弥呼のいた場所が邪馬台国。これを間違ってはいけない」と強調する。
纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳にも、いち早く着目した。県立橿原考古学研究所に就職した昭和51年には纒向石塚古墳(墳丘長96メートル)を発掘。後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれ、「纒向型前方後円墳」を提唱した。
この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上るという。「ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、各地に広がった。地方との政治的関係がこの段階で形成された」とみる。
(省略)
卑弥呼は、北部九州や吉備などの勢力が話し合いで擁立し、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)に都を置いた-。邪馬台国畿内説ではあっても〝多数派〟と大きく異なる見解を示した。
魏志倭人伝は卑弥呼誕生の経緯について「倭国乱れ、相攻伐(あいこうばつ)すること歴年。一女子を共立して王となす。名を卑弥呼という」と記す。
この記述をもとに畿内説の研究者の多くは、弥生時代に勢力を誇った北部九州と、大和を中心とする畿内勢力が戦い、勝利した畿内勢が卑弥呼を擁立したとの説をとる。あくまで戦争が前提だ。
しかし、「遺跡の状況を見ると、西日本を巻き込んだ大規模な戦闘の痕跡はみられない」と反論。魏志倭人伝の「倭国乱」について、中国の別の歴史書に「歴年主(あるじ)無し」と記された点に着目する。「中国から見て、倭国の王が定まらず外交窓口がない状態を『乱』と表現した」とみる。
遺跡の状況がそれを裏付けるという。「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。
この頃、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。群雄割拠の状態になった。一方で、畿内の大和には際立った副葬品を持つ大型の墳丘墓もなく、とびぬけた権力を持つ王はいなかったという。
新著を通じて「混沌(こんとん)とした状況を打破するため、北部九州や吉備などの勢力が話し合って卑弥呼を擁立。王都は、突出した既存勢力がいない纒向に置いた」と説く。
(省略)
「卑弥呼の時代は3世紀の昔の話と思ってほしくない」とも語る。卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは景初3(239)年。親魏倭王の称号と金印が授けられ、破格の待遇を受けた。
この年は、朝鮮半島北部一帯の勢力「公孫(こうそん)氏」が魏に滅ぼされた翌年にあたる。「卑弥呼は激動する東アジア情勢をいち早くキャッチし、魏の脅威を感じて使者を送った」と解説。さらに当時の大陸は魏、呉(ご)、蜀(しょく)の三国志の時代。「魏にとって、ライバルの呉を牽制(けんせい)する意味で倭国との関係を必要とした」とみる。(以下ソース)
7/9(日) 19:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/5d629aca32937916c57fe217ef6e77b9f5ccafaf
★1:2023/07/12(水) 23:23:47.30
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1689171827/