吉田 昌郎(よしだ まさお、1955年2月17日 - 2013年7月9日)は、日本の技術者である。東京電力(現:東京電力ホールディングス)元執行役員。 2011年3月11日の東日本大震災発生時に福島第一原子力発電所所長を務めていた人物で、福島第一原子力発電所事故の収束作業を指揮したことで知られる。 35キロバイト (5,232 語) - 2021年3月12日 (金) 13:26 |
https://news.yahoo.co.jp/articles/dcba43f38396a92b66d75be188f75413fbac594d
「すさまじい惨事です」
吉田昌郎所長
2011年3月11日夕、東京電力福島第一原子力発電所は東日本大震災に伴う津波で、原子炉の冷却に必要な電源を失った。1~3号機の炉心が溶融し、まず12日午後に1号機原子炉建屋が爆発した。2日後の14日午前、3号機建屋で激しい爆発音と噴煙が上がった。建屋付近の屋外で補修作業をしていた東電社員たちは、数百メートル北西の免震重要棟に走って逃げた。
<写真特集>被災記者が撮った気仙沼の大津波~救出まで43時間
14日夜、2号機の炉心に注水するために起動していた消防車の燃料が切れ、冷却が難しくなった。「炉心が溶け、同じようなプラントが三つできる。すさまじい惨事です」。同原発の吉田昌郎所長(故人)は電話で政府に訴えた。
15日朝、もう1棟の建屋が爆発した。身構えていた2号機ではなく、原子炉に核燃料を装填していなかった4号機建屋だった。国際的な尺度で最悪の「レベル7」と暫定評価された。
原子炉3基、次々と溶融
2011年3月11日に始まった東京電力福島第一原子力発電所事故は、原子炉3基が炉心溶融した未曽有の原子力災害だった。東日本大震災の津波で電源設備が水浸しとなり、原子炉を冷やせなくなった。必要な情報が共有されないまま、対策は後手に回り、3基の原子炉を収容する建屋が次々と爆発した。
電源全滅…想定せず
「1、2号機、SBO(ステーション・*アウト=電源喪失)です!」「3、4号機も!」。11日午後3時35分に津波の第2波が襲来した直後、免震重要棟の緊急時対策本部に連絡が入り、電話を受けた本部員たちが報告した。
地震発生時に運転中だった1~3号機では、自動停止した原子炉の崩壊熱を冷やす必要があった。だが地震で送電鉄塔が倒壊するなどして外部電源が途絶えただけでなく、津波で炉心冷却の命綱だった非常用ディーゼル発電機も止まった。
「10条を通報します」。同原発の吉田昌郎所長はテレビ会議システムで東京の本店に伝えた。全交流電源の喪失を示す原子力災害対策特別措置法10条だ。
非常時の手順書には、電源が全滅した時の記述が見当たらない。「バッテリーを集めよう」。制御盤の計器類を担当するチームの発案で業務車両などからバッテリーを外し、停電で真っ暗な中央制御室で計器に接続した。
吉田を補佐していた同原発幹部は、バッテリーを集める部下を見ながら焦燥感にかられた。「この事故は100メートル走なのか、42・195キロも走るマラソンなのか」。1号機では電力なしに水を循環させる非常用冷却装置が止まり、核燃料が損傷していた。
次ページは:1号機建屋、水素爆発
(略)