元横綱・貴乃花の貴乃花光司氏(48)が、情報処理トータルサポートの「サービス&セキュリティ(株)」=SSK=のテレビCMに25日から出演することになり、オンライン会見を行った。
18年に相撲協会を離れて以降は新たな道に進み、一般社団法人・貴乃花道場を主宰。
さらには神奈川歯科大の特任教授も務めるなど精力的に活動を続けている貴乃花氏だが、コロナ禍で道場のイベントは自粛中。
「娘(2人)とも会うのを控えていますが、手紙やメールは入ってきています」と話す。
その一方で、昨年9月に楽曲「純青」で歌手デビューを果たした靴職人の長男・花田優一氏(25)について質問が及ぶと、「完全に勘当していますので」と公の席で初めて、2人の関係について静かに話した。
優一氏は、高校卒業後イタリアで靴づくりを学び、帰国後は都内に工房を構えて完全オーダーメードで製作に当たっている。
ただ、受注した靴が納期に間に合わず、何度かクレームを受けたことがある。関係者によれば貴乃花氏が、その尻ぬぐいをしたこともあったという。
テレビやラジオにも出演し、タレントやコメンテーターとしても活動。19年には都内で絵画個展も開催するなどマルチに活動する優一氏。
ただ、貴乃花氏は以前、出演したテレビ番組で、靴職人に専念してほしいとの趣旨の発言をしたこともある。
相撲道を極め大横綱となった父からすれば、腰が据わらないようにも見える長男の姿に、もどかしい思いがあったのではないか。
同氏の歌についても「聞いてません」とサラリと答えた。勘当という言葉には父が子に向けた、いましめの気持ちと愛の叱咤(しった)が含まれているようだった。
https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/01/21/kiji/20210121s00005000581000c.html
(出典 www.sponichi.co.jp)
カテゴリ: 元大相撲力士
【芸能】元横綱#朝青龍 が再婚報告「結婚する事になりました。宜しく」 ツイッターに2ショット投稿【相撲】 [少考さん★]
朝青龍明徳 (ドルゴルスレン・ダグワドルジからのリダイレクト) Dagvadorj )。引退後は、「(元・横綱朝青龍の)ドルゴルスレン・ダグワドルジ氏」と報道などで紹介されることも多い。左利き。甥は立浪部屋の豊昇龍 智勝(ほうしょうりゅう ともかつ、長兄スガラクチャーの次男)。 15歳でモンゴル相撲を始め、ナーダムの相撲少年の部で優勝した。 104キロバイト (15,314 語) - 2020年7月16日 (木) 07:29 |
元横綱朝青龍が再婚報告「結婚する事になりました。宜しく」 ツイッターに2ショット投稿(THE ANSWER) - Yahoo!ニュース:
https://news.yahoo.co.jp/articles/f2833d2b790a6baac193d7d400d90506fba66acd
(出典 pbs.twimg.com)
7/16(木) 11:37配信
大相撲の元横綱・朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏が16日、自身のツイッターで再婚することを報告した。「結婚する事になりました。宜しく」と記して、婚約者と見られる女性との2ショットを投稿している。
現在39歳のダグワドルジ氏は2002年に1度目の結婚。09年に離婚していた。2010年の1月場所を最後に現役を引退。現在は母国モンゴルで実業家、タレントなど多方面で活躍している。
https://twitter.com/Asashoryu/status/1283585110239924225
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
【相撲・プロレス】元「双羽黒」北尾さん逝去 一人娘が振り返る“空白の15年”
北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - 2019年2月10日)は、三重県津市出身の元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・武道家、元プロレスラー。大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。 幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に 75キロバイト (12,044 語) - 2019年4月11日 (木) 12:23 |
北尾光司氏
この人ほど、破天荒という言葉が相応しい人もいないのではないか。
現役横綱「双羽黒」のまま廃業すると、その後、プロレスラー、総合格闘家など職を転々とした北尾光司氏(享年55)。
しかし、ここ15年ほど、表舞台には姿を見せなくなっていた。一体、何をしていたのか。
亡くなるまでの「空白期間」を、美人と評判の一人娘(24)が明*。
北尾氏が人生の幕を閉じたのは2月10日のこと。慢性腎不全を患っていたという。
納骨を済ませたところで、3月29日、妻で精神科医の淑惠さんが死去を明らかにしたのである。
北尾氏は型破りな横綱だった。22歳11カ月の若さで横綱に昇進したものの、わずか8場所目に師匠・立浪親方とちゃんこの味付けなどを巡って対立し、脱走騒動を起こした。
そのまま角界から引退し、プロレスラーとしてデビュー。その後、総合格闘家に転身するも長続きはしなかった。
最後にその動静が伝えられたのは、2003年、代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就いたことだった。
しかし、立浪部屋に出入りしていたのは、ほんの短い期間。それ以降の15年ほど、「空白期間」が続いていたのだ。
5年前から入院
北尾氏の一人娘が述懐する。
「私が物心ついたころには、父はもちろん相撲も格闘技もやっていませんでした。家でも、その当時の話はほとんどしなかった。
ですから、ほかのお父さんと違うところは、背が高くて、多趣味であることくらいにしか思っていませんでした。パソコン関係の仕事をしていて、それで稼いでいたみたいです。
また、ナイフや刀、エアガンの収集も趣味で、『ナイフマガジン』に記事を寄稿することもありました」
だんだんと、北尾氏の体を蝕んでいったのは、糖尿病だった。
「元気なときは旅行に連れて行ってくれたり、一緒にゲームで遊んだりしていましたけど、私が中学のころから具合が悪くなり、高校1年生くらいには、父は寝たきりに近い状態になりました。
トイレにも一人では行けなくなり、母や私が介添えをした。6年ほど前には両足首に褥瘡(じょくそう)ができて、より歩行困難に。一時は、両足の切断を医師に勧められるほどでした」(同)
加えて、腎機能も低下し、その治療も行わなければならなくなったという。
「この5年間ほどは、千葉県内の病院にずっと入院していました。昨秋からは人工透析を始めるようにもなった。
最近は、目もあまり見えなくなって、意識も朦朧とした状態でした。私がお見舞いに行くと、“誰? どこ?”といった感じで、私のことさえわからなくなってしまって……」(同)
それ以降、北尾氏は二度と娘を認識することがなかったという。
「世間では破天荒だとか怖いイメージがあるかと思いますが、本当に優しい父でした。
入学式や卒業式などでも、“娘がからかわれるかもしれないから”と、一度も顔を見せたことはありませんでした。
幼いときにはリカちゃん人形をくれたり、私を女の子らしく育てようとしてくれていた。
父の娘でも、“顔にケガをしたら大変だから”と、格闘技系の習い事をしたことはありません。父とはもっと遊びたかったし、一緒にお酒も飲んでみたかった。心残りばかりです」(同)
夫人と娘だけで家族葬を執り行い、北尾氏は荼毘に付されたという。
晩年は病に苦しんだ波瀾万丈の人生だったが、美貌の一人娘を残せたことで、棺を蓋(おお)いて事定まったということではないだろうか。
「週刊新潮」2019年4月11日号 掲載
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190412-00559694-shincho-fight
4/12(金) 5:58配信
(出典 Youtube)
プロレス】北尾vsテンタ【この八百長野郎!事件】