北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - 2019年2月10日)は、三重県津市出身の元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・武道家、元プロレスラー。大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。 幼少期に父親の影響で柔道を始めたが、津市立敬和小学校に
75キロバイト (12,044 語) - 2019年4月11日 (木) 12:23



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1 砂漠のマスカレード ★ :2019/04/12(金) 06:59:54.36 ID:kqpaj1Eo9.net

北尾光司氏

この人ほど、破天荒という言葉が相応しい人もいないのではないか。
現役横綱「双羽黒」のまま廃業すると、その後、プロレスラー、総合格闘家など職を転々とした北尾光司氏(享年55)。
しかし、ここ15年ほど、表舞台には姿を見せなくなっていた。一体、何をしていたのか。
亡くなるまでの「空白期間」を、美人と評判の一人娘(24)が明*。

北尾氏が人生の幕を閉じたのは2月10日のこと。慢性腎不全を患っていたという。
納骨を済ませたところで、3月29日、妻で精神科医の淑惠さんが死去を明らかにしたのである。

北尾氏は型破りな横綱だった。22歳11カ月の若さで横綱に昇進したものの、わずか8場所目に師匠・立浪親方とちゃんこの味付けなどを巡って対立し、脱走騒動を起こした。
そのまま角界から引退し、プロレスラーとしてデビュー。その後、総合格闘家に転身するも長続きはしなかった。

最後にその動静が伝えられたのは、2003年、代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就いたことだった。
しかし、立浪部屋に出入りしていたのは、ほんの短い期間。それ以降の15年ほど、「空白期間」が続いていたのだ。

5年前から入院

北尾氏の一人娘が述懐する。

「私が物心ついたころには、父はもちろん相撲も格闘技もやっていませんでした。家でも、その当時の話はほとんどしなかった。
ですから、ほかのお父さんと違うところは、背が高くて、多趣味であることくらいにしか思っていませんでした。パソコン関係の仕事をしていて、それで稼いでいたみたいです。
また、ナイフや刀、エアガンの収集も趣味で、『ナイフマガジン』に記事を寄稿することもありました」

だんだんと、北尾氏の体を蝕んでいったのは、糖尿病だった。

「元気なときは旅行に連れて行ってくれたり、一緒にゲームで遊んだりしていましたけど、私が中学のころから具合が悪くなり、高校1年生くらいには、父は寝たきりに近い状態になりました。
トイレにも一人では行けなくなり、母や私が介添えをした。6年ほど前には両足首に褥瘡(じょくそう)ができて、より歩行困難に。一時は、両足の切断を医師に勧められるほどでした」(同)

加えて、腎機能も低下し、その治療も行わなければならなくなったという。

「この5年間ほどは、千葉県内の病院にずっと入院していました。昨秋からは人工透析を始めるようにもなった。
最近は、目もあまり見えなくなって、意識も朦朧とした状態でした。私がお見舞いに行くと、“誰? どこ?”といった感じで、私のことさえわからなくなってしまって……」(同)

それ以降、北尾氏は二度と娘を認識することがなかったという。

「世間では破天荒だとか怖いイメージがあるかと思いますが、本当に優しい父でした。
入学式や卒業式などでも、“娘がからかわれるかもしれないから”と、一度も顔を見せたことはありませんでした。
幼いときにはリカちゃん人形をくれたり、私を女の子らしく育てようとしてくれていた。
父の娘でも、“顔にケガをしたら大変だから”と、格闘技系の習い事をしたことはありません。父とはもっと遊びたかったし、一緒にお酒も飲んでみたかった。心残りばかりです」(同)

夫人と娘だけで家族葬を執り行い、北尾氏は荼毘に付されたという。

晩年は病に苦しんだ波瀾万丈の人生だったが、美貌の一人娘を残せたことで、棺を蓋(おお)いて事定まったということではないだろうか。

「週刊新潮」2019年4月11日号 掲載

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190412-00559694-shincho-fight
4/12(金) 5:58配信


(出典 Youtube)

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